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種子島でポルトガル人が日本に鉄砲伝来をした歴史を解説

鉄砲は、1543年(天文12年)に、種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと言われています。
最初は火縄銃型の鉄砲です。
日本に来たポルトガル人は、鉄砲と火薬を持参していて、領主の種子島時堯はその鉄砲2丁を買い取り、家臣に使用法と製造法を学ばせ、つくらせたと言われています。

しかしいまは研究が進んで、倭寇の親分でもあり、博多商人とも親交のあった王直という中国人の船に、ポルトガル人が乗って種子島にやって来た、ということが明らかになっています。
日本人は中国人の方には驚かなかったでしょうが、ポルトガル人の白い肌や変わった色の髪色や目の色には、当時の人はかなり驚いたことでしょう。


16世紀当時、倭寇は海賊ではなくむしろ海上国家と呼ばれるべき存在でした。
14世紀半ばに中国の王朝となった明は、海外との自由貿易を禁止します。
それ以前の宋やモンゴルは、盛んに交易をやっていた国なので、海で生きる人がたくさんいました。
ところが明は、交易は朝貢しか認めない。
交易したい国は、臣下の立場に立って貢物を献上し、それに対してお褒めの言葉とともに品物が贈られる交易の形式です。
具体的には朝貢を約束した国の貿易船に割符の半分を与える。
それを持ってきて、こちらの半分と合えば交易を認める、というもので、この割符を勘合符(かんごうふ)といったので、俗に勘合貿易と呼ばれました。

勘合貿易は面倒でしたが、臣下の立場になるわけですから、もらえる贈り物は多くなります。
ボロ設けはできますが、いくら裏取引で勘合符を粗製濫造しても、そんなに多くは出せません。
そうすると、いままで自由に海で生きてきた人は、陸へ上がって百姓になるか、海賊になるしか道がなくなります。
どちらを選ぶかは明らかです。
海で生きてきた人は、そう簡単には陸には上がれないのです。

そう考えると、倭寇の実体は、中国や韓半島、日本の海に生きる人たちの連合共和国だったとも考えられます。


鉄砲は、中国で唐代に実用化された火薬が、火器となってモンゴルの大西征からヨーロッパに流れていき、そこで鉄砲になるわけですが、ポルトガル人が持ってきた鉄砲を見て、倭寇の親分であった王直は考えました。
この鉄砲を日本に持っていったら、高く売れるのではないか、いい商売になるかもしれない、と。
しかし、どうせ日本に持ち込むのだったら、仲間の日本人や中国人が持っていくより、目の青い西洋人が持っていく方が、有難みが増すな、と考えたのです。

また、16世紀の初めに、ドイツでルターの宗教改革が起こり、ローマ教会は西ヨーロッパで大量の信者を失ったので、その穴埋めは新大陸やアジアで行うしか道がなくなりました。
それでイエズス会を先頭してアジアに押しかけてきました。
明の海禁に加えて、こういう大きな流れもあるのです。
たまたまとある船が種子島に漂着し、そして鉄砲が伝来しました。
船が漂着したのは台風の直撃を受けたからだとも言われています。

鉄砲は種子島から紀州の根来、泉州の堺、さらに畿内や関東地方へひろまったというのが通説ですが、これは確かな根拠があるものではありません。

それだけに留まらず、当時のローマ教会や東アジア全体の状況から歴史を見ていくと、中国の明を中心とする
交易の状況はどうであったのか、倭寇とは何者だったのか、イエズス会とは何か、そのようなことを学んでいくと、鉄砲の伝来も初めて本当の姿が見えてくるようにも思えます。



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